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日本の給与史

主家のためならどこまでも!
~企業革新を支えたのは“別家衆”という古い番頭制度だった!

いとう呉服店が“名古屋初の百貨店松坂屋”に発展した背景にあったもの

老舗呉服店が近代的百貨店に生まれ変わる

江戸時代の初めから続く老舗呉服店だった「いとう呉服店」は、明治43年の3月5日、創業の地・茶屋町から出て、栄に百貨店を開業した。名古屋で初の百貨店だった。店は木造だったが、ルネサンス洋式を基調とする3階建てだった。延べ床面積は1千200坪あり、市民はその豪華さに目を見張った。場所は栄町5丁目(現中区栄3丁目4番地 丸栄スカイルの所)だ。この日は雪解けの悪い道であったが、開店前から顧客が列をなした。

この成功により、名古屋の市民の間では、評判がますます高まった。おかげで「いとう呉服店」とか「いとうさん」という、まことに親しみと敬意に満ちた呼び方で呼ばれるようになった。女性にとっては「名古屋で一番の最高級店で買い物ができた」という満足感があった。

いとう呉服店は、名古屋が開府した時、つまり江戸時代の初めから、茶屋町で本店を構えていた。当時でも、いとう呉服店は、名古屋の本店のほかに、東京、大阪、京都、岡崎、岐阜、亀崎にも店を構えていて、全国的だった。

この百貨店を創ったのは、15代目伊藤次郎左衛門祐民(すけたみ)だった。祐民は守松ともいい、明治11年に生まれた。妻は岡谷惣助の娘ていだ。

祐民の人生を変えたのは米国視察だった。明治42年に渋沢栄一など著名な経済人とともに訪米する機会を得た。この際に発展著しい百貨店というものをつぶさに見た。祐民は、名古屋で初の百貨店を創るという決意を固めて名古屋に戻った。

もっとも、この百貨店への進出は、いとう呉服店の人々から猛反対された。先代の祐昌はその計画を一蹴した。だが、祐民はあらゆる難関を突破して実行した。開店したのは明治43年で、彼がまだ32歳だった。

いとう呉服店は、大正14年に現在地の大津通に移転した。店名も「松坂屋」に統一した。

いとう呉服店で江戸時代から続いてきた別家衆という制度

いとう呉服店が名古屋初の百貨店として生まれ変わることができた背景には「別家」という江戸時代から続く奉公人の仕組みがあった。

伊藤家には、別家の種類として日勤別家・後代別家・在宅別家があり、中でも重要なのは「日勤別家」だった。

別家というと、暖簾分けをして自ら店を開くことを想像するが、日勤別家はそういうものではない。ずっと引き続いて、それこそ終身まで主家のために尽くすのが役割だった。

伊藤家の奉公人は、次のような階梯(かいてい)があった。

呼称 階級 受け持ち
小供 小僧 店小供、茶番
平小供 入店1年後ほど 持参方、蔵番
外出格 丁稚 元服して市内外廻り
外出本格 古参丁稚 外廻り
平組 準手代 外廻り
組下格 古参準手代 売り場番頭、仕入れ方
六人組 手代 売り場番頭、地方外商、仕入方
四人組 手代 仕入方、染方
四人組本格 番頭心得 本帳場、中帳場、金帳場
脇役 幅支配人 番頭補佐
番頭 支配人 総括
元締 日勤別家・重役 総括

これは明治40年当時のものであり、江戸時代よりも細かく区分されるようになったそうだが、これだけを見ていると、労務管理は江戸時代と大差なかったようにみえる。このように日勤別家は店員の頂点として、店の運営を一切合切取り仕切った。

この「別家」という制度ができたのは江戸時代だった。江戸時代の伊藤家は、主人が亡くなって幼い当主が誕生するなど、何度もピンチを迎えたが、別家衆は一致団結して主家を支えて乗り越えさせた。それに対して、主家も別家衆の生活を、それこそ死ぬまでみることで報いた。主家と別家とは、そういう信頼関係だった。

別家というのは、男子が継ぐ世襲制ではなかった。奉公人の中で最も優秀な者が選ばれた。別家の数は決まっていたので、その娘と結婚して婿に入る形で別家になった。従って別家の家に生まれた男子は、他の奉公人と同じ立場で扱われ、優遇されることはなかった。他の別家を継ぐことはあっても、その家を継ぐことは出来なかった。

明治の末になると、3代目鬼頭幸七という人物が登場する。祐民はこの幸七を信頼して、百貨店への脱皮、松坂屋への社名変更などの大変革を任した。

鬼頭幸七家は、別家の中では新参な方だった。初代幸七は藩債問題の解決に尽力した。祐昌は、その功績に報いるため、家屋敷を与えた。

2代目幸七は、本名平田卯八で、いとう呉服店の最高責任者である元締を務め、店の経営に深くかかわった。

3代目幸七は、本名渡辺伊之助という。13歳で奉公に上がり、優秀だったので、2代目幸七の娘と結婚して、養子に入って、鬼頭幸七を襲名した。

いとう呉服店を、近代的な百貨店に生まれ変わらせたのは、意外にも江戸時代から続くこのような古い人材登用の仕組みだったのだ。